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ロマノフ朝
ロマノフ家のはじまり
ロマノフ朝(ロマノフちょう)は、1613〜1917年の約300年にわたってロシアに君臨した王朝。
ロマノフ家は、14世紀初めにプロシアからロシアへ移住して来たアンドレイ=コブイラに出るが、初めコブイラの第5子コーシュカ以後、コーシュキン家を名乗る。
次いで、コーシュカから5代目のロマン=ユリエヴィチ(〜1543)以後,ロマノフ家と称した。
ロマンの娘アナスタシア(〜1560)は、1547年,モスクワ皇帝イヴァン4世の第一妃となり、ロマンの子ニキタが大いに勢力をふるった。
1598年,リューリク王朝が断絶して、ニキタの子フョードルは、新帝ボリス=ゴドゥノフと対立、失脚・剃髪してフィラレートと称し、モスクワ勢力に対抗したトシノ勢力のギリシア正教総主教となった。
613年2月、前王朝断絶後の“混乱”がおさまると、ヴォルガ河畔のコストロマ市の近郊ドムニノ村に蟄居していたフィラレートの子16歳のミハイルが、士族・商人・コサックの代表者全国会議で皇帝に選出され、ロマノフ王朝の始祖となった。
16世紀末のフィラレート・ニキーチチ・ロマノフの代に台頭し、その息子であるミハイル・フョードロヴィッチ・ロマノフが1613年にリューリク朝後の動乱期を制して初代ツァーリに即位し、18代ニコライ2世が廃位させられる1917年まで続いた。
ロマノフ家の血統
専制君主として君臨し、 ピュートル1世(ピュートル大帝)のとき西洋化・近代化を進めヨーロッパの列強に加わり、その後勢力を拡大してヨーロッパから沿海州までを支配した。
その後宮廷革命でドイツ人のエカチェリーナ2世が即位する。この過程でロマノフ家にはドイツ系の血が濃厚となった。
19世紀に入ると立憲君主制を求めてデカブリストの乱が起こる。
1905年革命で専制君主制から立憲君主制へ移行し、ロシア革命で君主そのものが打倒される。
ロマノフ家の男系の嫡流は、1730年に断絶しており、さらに1762年にホルシュタイン・ゴットルプ家からピョートル3世を皇帝として迎えており、実際には、1762年以後はホルシュタイン・ゴットルプ・ロマノフ王朝と呼ぶのが史実的には正しい。
ロマノフ家の実態
ロマノフ家は、前モスクワ大公兼ロシア・ツァーリだったリューリク家の外戚であった。
ロシア帝国に置ける有力貴族であったと言うが、プロイセン地方の出自とも言われる。
イヴァン雷帝死後のロシアの混迷、ことに帝都モスクワを占領したポーランドを撃退したことで、1613年ロシアの有力貴族によってツァーリに推戴された。
帝政初期は、有力貴族によって政治を牛耳られたが、二代目ツァーリ・アレクセイによって帝権が確立する。
1667年のロシア宗教改革がその決め手となった。
主な財源は征服地シベリアからの毛皮・木材の貿易、中央アジアの植民地化による市場確保であった。
ロマノフ家の経済力はハプスブルク家を超えているとも言われ、世界一の大富豪でもあった。
またこの時代は皇帝による支配が安定した時期であり、それまでロシアの政治を担ってきた貴族階級が没落した時代でもあった(絶対君主制)。
なおロマノフ家の嫡子は、ピョートル2世の代で絶え、1762年からはホルシュタイン・ゴットルプ家が皇位を継承している。
またエカチェリーナ2世自身もドイツ人であったため、ロシアの皇室には、ドイツの血統が濃密となった(後にドイツ人との婚姻で、皇室に影を落とす血友病もロマノフ家に流入した)。
ピョートル大帝の時代以降、ロシアでは、スラヴ派と西欧派がしのぎを削り、それがツァーリの親政にも影響を及ぼした。
歴代皇帝の政策は、主に不凍港の確保と、南下政策であったが、19世紀に欧州列強として台頭すると、ロシア帝国も帝国主義化し、植民地主義を標榜するようになった。
特にバルカン半島に対する民族主義を掲げ、汎スラヴ主義を推し進めた。
これはオーストリア・ハンガリー帝国の汎ゲルマン主義と対立し、第一次世界大戦の原因ともなった。
しかし帝国内では領土拡張によって内部に数多くの少数民族を抱え、民族問題を抱え込むこととなった(ロシアのくびき)。
この様な中でツァーリの親政にも限界が及び、1881年にはナロードニキによるアレクサンドル2世の暗殺事件が起きている。
1905年には、血の日曜日事件が起き、皇帝ニコライ2世は改革に踏み切ったが、既に時機を逸していた。
これ以降帝国内は混迷の時代を迎え、ロシア帝国の最終章を迎えるのである。
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