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ピョートル1世
ピョートル・アレクセーエヴィチ・ロマノフ(1671年6月9日 - 1725年2月8日)
ロマノフ朝の5代目(在位1682年 - 1725年)。
モスクワ生まれ、サンクト・ペテルブルグにて病死
モスクワ大公で、初代ロシア皇帝。
アレクセイ・ミハイロヴィッチの子。
その歴史的存在感と2mを超す体躯から、ピョートル大帝とも称される。
妻、エヴドキア。
後妻、エカテリーナ1世。
3歳で父を亡くし、1682年に病弱な兄フョードル3世の死去の跡を継いで、異母兄のイヴァン5世とともにロシア皇帝の座に就いた。
はじめ摂政の異母姉(義姉)ソフィア・アレクセーエブナの専横を許していたが、次第に宮廷内で支持者を獲得していくと、1689年にソフィア派を宮廷から追放することに成功した。
89年に実権を手に入れたが政務は母の没する94年迄母に委ねた。
ピョートル1世は同年イヴァン5世を廃位して単独統治を開始した。
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ピョートル1世は1696年にロシア海軍を創設すると、オスマン帝国からアゾフ海の制海権を奪って黒海への出口を確保した。
1700年に大外交使節団を編成して西欧諸国を視察し、先進技術を修得させ軍の近代化を進めた。
西欧への窓として新都(1703)創建。
1725年よりペテルブルグ(サンクト・ペテルブルク)と呼ぶようになる。
官僚機構を整備、中央集権制を確立。農奴制度を強化し、官営諸工場を設置するなど産業育成にも尽力。
啓蒙専制君主の典型。
後世大帝と称されたが当時は伝統を無視し性急な改革とことさら旧習に逆らう粗暴な生活態度から一部貴族の反発をかい皇太子アレクセイもこれに加わったとして1718年獄死させた。
1721年に、正式に皇帝(インペラートル)となった。
しかし、1725年、寒中溺れた水兵を救おうとして厳冬の海に入ったため肺炎にかかり死去。
皇位継承法を行使していなかった事を良い事に、貴族寡頭政治の一時期を現出させた。
後継者には北方戦争で捕われたリトアニアの百姓女で後に正式な后になったエカテリーナがなった。
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