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ポール・セザンヌ

(Paul Cezanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日)


ポール・セザンヌ はフランスの画家。
後期印象派の時期に活躍し、「近代絵画の父」として知られる。
セザンヌは後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムに大きな影響を与えた。
同時期の画家としてはゴッホやゴーギャンがいる。

生涯

[セザンヌ]

1839年、ポール・セザンヌは裕福な銀行家の息子として南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。
自然主義文学の代表的作家エミール・ゾラとは少年時代からの友人だった。

1862年、セザンヌは画家を志してパリに出る。
ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、のちに印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受ける。

ポール・セザンヌ は「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の「印象派」グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。
二人は1872年にはポントワーズで、1873年にはオーヴェル=シュル=オワーズでイーゼルを並べて制作した。

ポール・セザンヌ と「印象派」

1874年の第1回印象派展に『首吊りの家』を出品し、以後第3回まで出品を続けた。

ポール・セザンヌが初めてサロンに入選したのは43歳のときである(『画家の父』(1882年))。
このときセザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという。

1886年、ゾラの小説『制作』が自分を中傷していると感じ、ゾラと絶交した。
同年、父親が亡くなったため遺産を相続し、内縁の妻と正式に結婚した。
そして故郷に戻り、サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けた。
セザンヌは経済的な不安はなかったものの、絵はなかなか理解されなかった。

1895年、ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。

ポール・セザンヌは、時間とともに移ろう光を追いかけている印象派に不満だった。
ポール・セザンヌの「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を与えた。

ポール・セザンヌのエピソード

[セザンヌ]

ポール・セザンヌの青春時代のある日近所の農家の家が火事になった。
ポール・セザンヌはその農家の家が燃える様子を見ていて、その炎に見とれてしまった。
そこに消防士がやってきてその火事を消し止めようとするが、ポール・セザンヌは「始めにこの炎を消そうとするものはこれを一発見舞ってやる!」と懐からピストルを一丁取り出し消防士にその銃口を向けた。
当然誰も身動きが出来ないまま家はとうとう全焼してしまった。

ポール・セザンヌは異常なまでな潔癖症だった。
例えば、ちょっとでも洋服が誰かに触れた、もしくはすれ違っただけで何度も何度もぬぐった。
特にポール・セザンヌは女性を忌み嫌っていたため、女性の場合はこの癖はひどかった。
作品は時間をかけて何度も描き直され、最初の構図を留めないものも多い。
絵が完成する前にリンゴなどが干からびてしまうことも多かったという。

エルミタージュ美術館に展示されているセザンヌの絵画

[セザンヌ] [セザンヌ]

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