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ピエール・オーギュスト・ルノワール
(Pierre-Auguste Renoir、1841年2月25日 - 1919年12月3日)
ピエール・オーギュスト・ルノワール はフランスの印象派の画家であり、その作品は日本でも広く知られている。
長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。(後期から作風に変化が現れ始めたので稀に後期印象派の画家とされることもある。)
ピエール・オーギュスト・ルノワールはフランス中南部のリモージュにて生まれる。
3歳の時、一家でパリに移住する。
13歳で磁器の絵付職人となるが、産業革命、機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した。
1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。
のちグレールのアトリエ(画塾)に入り、モネ、シスレー、バジールらと知り合っている。
ピエール・オーギュスト・ルノワールと「印象派」
ピエール・オーギュスト・ルノワールは印象派展には1874年の第1回展から出品している。
他の印象派の画家たちと同様、風景画も制作したが、特に人物を好んで描き、裸婦像、少女像などを得意とした。
1870年代から1880年代初頭にかけての作品は典型的な印象主義の作風によるもので、『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』(1876年)、『舟遊びの人々の昼食』(1880−1881年)などがこの時期の代表作である。
しかし、ピエール・オーギュスト・ルノワールは、1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。
1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。
この時期、特に1883年頃からの作品には新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。
ムーラン・ド・ラ・ギャレット1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かい色調が戻り、豊満なヌードを数多く描いた。
1898年頃からリューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。
ただし、「指に筆をくくりつけて描いた」というのは伝説の域を出ないようである。
ピエール・オーギュスト・ルノワールはは日本にも早くから紹介され、その親しみやすい画風のためか愛好者も多い。
また、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。
『青い帽子の少女』は、日本文教出版の、中学生の美術の教科書にのっている。
エルミタージュ美術館に展示されているピエール・オーギュスト・ルノワールの絵画
主な作品
『水浴の女たち』
『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』
『本を読む婦人』
『ぶらんこ』
『田舎の踊り』
『街の踊り』
『ピアノに寄る少女たち』
『風景の中の裸婦』
『イレーヌ・カーン・ダンヴェルス嬢』
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