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ニコライ1世

[ニコライ1世] (Николай I Павлович、ニコライ・パヴロヴィチ・ロマノフ、1796年7月6日 - 1855年3月2日 在位1825年-1855年)


ロマノフ朝第11代ロシア皇帝

兼ポーランド立憲王国の第2代国王

父はパーヴェル1世(第3子)

サンクト・ペテルブルグにて病死


兄アレクサンドル1世の在位中から反動的な言動で知られていたので、ニコライ即位に際して自由主義者の将校達がデカブリストの乱を起こした。

[ニコライ1世]

デカブリストの乱を鎮圧すると、ニコライ1世は強権的な専制政治を展開し、1830年と1848年におこったポーランド立憲王国の自治権拡大運動を鎮圧した。

この結果、それまで総督が統治していたポーランドは1830年の武装蜂起鎮圧後直轄領となり自治権も大きく制限された。

カンクリンの幣制改革(1839-43)等々が行われたが農奴制廃止断行できず西欧諸国から決定的な遅れの原因をつくった。

また1848年には「ヨーロッパの憲兵」と銘打って、ハンガリーの独立運動を鎮圧した。

対外的には、汎スラブ主義の土台を築き上げ、南下政策を推進した。

バルカン半島では、ギリシャやセルビアの独立運動を支援した。

[ニコライ1世]

西アジア方面ではカージャール朝ペルシアに対してトルコマンチャーイ条約を受け入れさせ、アルメニアを併合することに成功した。

エジプト事件に際してはオスマン帝国を終始支援し、ボスフォラス・ダーダネルス領海峡の独占航行権を一時獲得するなど、南下政策を進めていったがパレスチナ管理権をめぐり対立。

イギリスやプロイセン・オーストリアの干渉を受けて挫折し、オスマン帝国との間にクリミア戦争(1853-1856=パリ講和)を起こした。

ヨーロッパに吹き荒れた社会運動の影響がロシアにも及んで、反体制派の活動が活発化する中で死去した。

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