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サンクトペテルブルグ情報
サンクトペテルブルグ
サンクトペテルブルグ(ロシア語:Санкт-Петербург、サンクトピティルブールク、Sankt-Peterburg)は、ロシア第2の都市。
レニングラード州の州都である。
英語名はセント・ピーターズバーグ(Saint Petersburg)。
ドイツ語名はザンクト・ペータースブルク(Sankt Petersburg)。
かつてのロシア帝国の首都。
ソ連時代はレニングラード(Ленинград)であった。
規模
モスクワと並ぶロシアの大都市で、連邦市としてロシア連邦を構成する89連邦構成主体のひとつとなっている。
人口は約470万人で、モスクワにつぐロシア第2の都市。
概要
北緯59度56分、東経30度20分に位置する。
2003年5月29日には、300周年記念として様々な祭典が催された。
ネヴァ川をはじめ、運河などの水をたたえた美しい町であり、北のヴェネツィアと称されることもある。
ロシア文学において重要な位置を占め、プーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキー他、多くの文学作品の舞台となっている。
エルミタージュ美術館、冬宮殿、エカテリーナ宮殿、アレクサンドル・ネフスキー修道院等の歴史地区は、1990年に世界遺産(サンクト・ペテルブルク歴史地区と関連建造物群)に登録されている。
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歴史
名前の変遷
都市の名は「聖ペテロの街(建都を命じたピョートル大帝(ラテン語でペテロ)が自分と同名の聖人ペテロの名にちなんで付けた)」を意味する。
当初はオランダ語風にサンクト・ピーテルブルフ(Санкт-Питер-Бурх)と呼ばれ、後にドイツ語風にサンクト・ペテルブルク(Санкт-Петербург)と呼ばれ、ロシア帝国の首都として長く定着していた。
第一次世界大戦でロシアがドイツと戦争状態に入ってからロシア語風にペトログラード(Петроградピトラグラート、1914年から)と改められ、さらにソビエト連邦時代にはレーニンにちなんでレニングラード(Ленинградリニングラート、1924年から)と改称され、この名称が半世紀続いた。
しかしソ連崩壊を受けて、1991年に住民投票によってロシア帝国時代の現在の名称に再び戻った。
ロシア人の間ではピーテル(Питер、ピーチェル)の愛称で呼ばれる。
なお、州名は従来どおりレニングラード州となっている。
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都市の歴史
ピョートル大帝によって1703年5月27日(グレゴリオ暦。当時のロシアで使われていたユリウス暦では5月13日)に築かれた人工都市であり、モスクワとサンクトペテルブルクは母性と父性として対比されることもある。
その背景としては、モスクワが「大地信仰」を根底とするロシア(「母なる大地、母なるロシア」という表現が用いられる)を象徴する土着の都であったのに対し、ペテルブルクは西欧に習って「人工的」に建設された西欧的・キリスト教的な父性支配を象徴する都と考えられる、ということがある。
スウェーデンから奪取したバルト海・フィンランド湾沿岸に新都として造営された。
建造作業は過酷なもので、多くの人命が失われた。その数は1万とも言われる。
ロシア革命では二月革命・十月革命の2つの革命の中心地となり、武装蜂起によるボリシェヴィキの政権奪取やレーニンによる憲法制定会議の解散が起こった。
その後、ソヴィエト政権は首都をモスクワに移転し、1922年に正式に定められたことで、レニングラードと改称されたこの町は政治の中心地から外れた。
ロシア・フィンランドの国境に近い為、スターリンはフィンランドに対して「大砲の射程内の地域」の割譲を要求したが、フィンランドはこれを拒み、1939年の冬戦争が起った。
フィンランドは善戦したが、結局翌1940年、当該地域の割譲で講和がなされ、この戦争が中立的であったフィンランドの枢軸陣営参加を招いた。
第二次世界大戦中は、フィンランド、ドイツ両軍を基幹とする枢軸軍によって約400日にわたる包囲を受けた(レニングラード包囲戦)が、凍結した湖から細々と物資輸送を行うなどして耐抜いた。
戦後もレニングラードはソビエト第2の都市として存在したが、その歴史的経緯からモスクワとは違った文化や風土を維持した。
また、レニングラードの共産党第一書記になることは、ソビエト体制の中で重要な位置を占めることと同義であり、クレムリンでの権力ゲームでも影響力を持つことになった。
とはいえ、ペテルブルク出身の人物がロシアのトップに上り詰めたことは、革命以降ウラジーミル・プーチン大統領の登場まで絶えてなかった。
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文学
サンクトペテルブルクは、ピョートル大帝による建都以来ロシア最大の文化都市として発展してきた。
そのため、特に帝政時代にはこの都市を舞台に多くの文化人が活動し、詩や小説などの題材としても扱われてきた。
『青銅の騎士』を物した詩人で作家のアレクサンドル・プーシキン、所謂「ペテルブルクもの」を物したウクライナ出身の作家ニコライ・ゴーゴリ、『罪と罰』を物したフョードル・ドストエフスキーなどがその代表である。
また、イワン・ツルゲーネフの作品にも描かれるように帝政時代のモスクワはひどい「田舎」扱いされており、ペテルブルクで活躍することこそがエリートの絶対条件であると看做されていた。
音楽家や画家もペテルブルクで活動するのが基本であり、特に帝政末期ペテルブルク以外で活動するようになった芸術家の一派は「移動派」と呼ばれた(ペテルブルク以外を巡業する派ということ)。
こうしたことから、ペテルブルク人は文化意識・水準が高いという誇りを持っているとされている。
音楽
サンクトペテルブルク・フィルハーモニー交響楽団(旧レニングラード・フィル)
エフゲニー・ムラヴィンスキーが指揮していた時代には、世界有数の実力を誇るオーケストラと言われた。
主な出身者
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(音楽家)
ウラジーミル・プーチン(ロシア大統領)
ニコライ・ワルーエフ(WBA世界ヘビー級王者)
ミハイル・ボトヴィニク(チェスの元世界チャンピオン)
ボリス・スパスキー(チェスの元世界チャンピオン)
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